えびね温泉周辺の紹介
浴場の窓から見える、清流の来し方
えびね温泉の浴場からは、すぐそこを日置川が流れているのが見える。川幅は広く、水は透き通り、 季節によって水量も色も表情を変える。温泉に浸かりながら眺めるこの川が、源流から79kmの旅をしてここに至っていると思うと、 少し感慨深い気持ちになる。
現在は白浜町と合併しているが、かつてはこの川沿い地域は日置川町として独立していた。
日置川の源流は、奈良・和歌山県境に連なる果無山脈の安堵山(標高1,184m)にある。 最上流部はわずかに奈良県十津川村の域に入る。十津川村は面積が東京23区を超える日本最大の村で、 その山深さゆえ天武天皇の時代(686年)から年貢を免じられてきたとされるほどの秘境の地である。
果無山脈という名は、後醍醐天皇の皇子・護良親王が鎌倉幕府の追討を逃れてこの地を越えた際、 「ここまで来ればもう追手もないだろう」と安心したという故事に由来するとも伝わる。また、この山脈は 日置川・富田川・日高川・熊野川という4つの川の分水嶺でもあり、紀伊半島の川の母ともいえる存在である。
安堵山を源とした日置川は途中、安川・前の川・将軍川・城川といった支川を合わせながら南西に流れ、 白浜町日置で紀州灘へと注ぐ。全長は約79km。流域のほぼ全域が山林で、河口付近を除いて集落は山の斜面に しがみつくように点在していた。年平均降水量は約2,300mmと全国平均の約1.4倍に達し、 日本でも有数の多雨地域である。この豊富な雨量と急峻な地形が、日置川の豊かな清流を生み出している。
日置川河口の日置港は、中世において安宅水軍の根拠地であったとも伝わる。 海と川の結節点として、この地が軍事・交通の要衝であったことをうかがわせる。 また、元禄年間(1688〜1704)頃に成立したとみられる「紀南郷導記」には「安宅川」の名で記され、 続風土記にも「安宅川海口の名を呼ひて又日置川ともいふ」とあることから、 かつては「安宅川」とも呼ばれていたことが分かる。
日置川の、鮎・アマゴ・ウナギの豊富さは 和歌山県下一ともいわれる。水質は国の環境基準でも最高ランクの「AA類型」に指定されており、 平成6年以降この基準を継続して満足している。毎年5月下旬に鮎釣りが解禁されると、 県内外から多くの釣り人が訪れ、夏の風物詩となっている。
殿山ダムより上流の区間は支流が多く、アマゴ・タカハヤが生息する淵や礫底の瀬が連続する渓流が続く。 ダムより下流では川幅が広がり、天然遡上の鮎やウナギ、カワセミ・オシドリ・ヤマセミといった 水辺の鳥たちも見られる。また、河口部の中洲には昆虫類の貴重種「ヨドシロヘリハンミョウ」が生息しており、 県指定天然記念物に指定されている。両生類ではカジカガエル、昆虫ではムカシトンボなども確認されている。
清流として知られる日置川だが、かつては「木材の道」でもあった。山深い流域で伐り出された木材は、 川を使って下流へ運ばれた。丸太を川に流す「管流し(くだながし)」や、複数の木材を組んだ「筏流し」が行われ、 下流の日置集落まで運ばれた木材は港から船積みされ、各地へと出荷されていった。
日置の集落が「古来より日置川の上中流部からの木材集散地として栄えた」と記されるのはそのためで、 川は単なる自然の流れではなく、この地域の経済を支える幹線輸送路であった。 明治中期までは平田舟が中流まで遡上し、下流からは米や日用品を、 上流からは炭・薪などを運んだとも伝わる。
こうした川の暮らしに終止符を打ったのが、1957年(昭和32年)の殿山ダム(合川ダム)の完成である。 前の川・将軍川が合流する中流部に建設された関西電力の発電専用ダムで、地元では「合川ダム」とも呼ばれる。 これにより上流からの筏流しは物理的に不可能となり、それに先立つ1953年(昭和28年)の大水害と重なって、 川を使った木材運搬の時代は静かに幕を閉じた。
このダムが土木史的に興味深いのは、日本初のドーム型アーチ式コンクリートダムであるという点だ。 殿山ダム建設で積み上げられた技術と経験が、のちの黒部ダム建設に大いに役立てられたとされる。
林業が衰え、筏流しが消え、日置川町という地名も白浜町に吸収された。しかし川は今も変わらず、 果無山脈から79kmを流れ下り、えびね温泉の目の前を通り、志原海岸の先で紀州灘へと注いでいる。
浴場から眺める清流は、奈良との県境から、山と歴史を連れてここまで来た川である。