安宅氏と紀州水軍

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安宅氏城館跡(国史跡) / 和歌山県白浜町安宅・矢田・田野井ほか

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安宅氏 ― 日置川を本拠とした紀州:熊野水軍領主

( あたぎし/きしゅう:くまのすいぐん )
鎌倉時代末期から戦国時代にかけて、日置川流域を本拠に紀伊半島南岸で勢力を示した水軍領主。
一族の盛衰を物語る城館群は、令和に入り国史跡に指定された。

安宅氏のはじまり

安宅氏の出自については諸説あり、定説はまだ確立されていません。 鎌倉時代後期に執権北条氏の命を受け、海賊退治のために阿波国(現・徳島県)から日置川流域へ派遣されました。 源流は甲斐源氏の小笠原氏とされ、阿波の三好氏や讃岐の十河氏とは同族にあたるという伝承があります。 安宅氏が拠点としたと伝わる「安宅荘」(現・白浜町安宅)は、当時「熊野海賊」と呼ばれた海賊衆の活動が盛んな土地でもあり、 この地に根を張った経緯には、こうした海上勢力との関わりも想定されますが、史料による裏付けを欠く部分もあり、解明は今後の研究にゆだねられております。

久木小山氏との関わり

戦国の動乱と安宅水軍

享禄3年(1530)

当主・実俊の死後、跡を継いだ弟の定俊と、実俊の子・安定丸との間で家督争いが起こり、一族を巻き込む内乱に発展。定俊は八幡山城で自刃し、安宅氏はこの内乱を境に勢力を弱めていきます。 この出来事を題材にした軍記物語「安宅一乱記」は、地元では悲恋伝承「おしんの首」とともに伝えられてきました。

天正5年(1577)

織田信長による紀州征伐の混乱の中、安宅光定は久木小山氏・周参見氏・温井氏と起請文を交わし、周辺領主同士の協調を確認しました。

天正13年(1585)

豊臣秀吉による紀州征伐に際し、最後まで抵抗した湯河氏・山本氏とは異なり、安宅氏は久木小山氏・周参見氏とともに秀吉に帰順。所領を安堵されました。 この時点で日置川を中心とした安宅氏と久木小山氏の協調関係は、紀州の戦乱を乗り越える鍵のひとつだったといえます。

慶長5年(1600)

関ヶ原の戦いで西軍に付いた安宅氏は知行を失い、当主・信定は日置の正光寺で自害したと伝わります。 その子孫は後に安宅荘へ戻り、紀州徳川家のもとで地士として取り立てられ、近世を生き抜きました。

安宅水軍の船と城

日置川の木材を運んだ大型船

安宅氏は、久木小山氏と共同で日置川流域の山林を管理し、大坂城の築城に使う材木の運送なども取り仕切っていたとされます。 安宅水軍は、五百石から二千石積み、艪50〜160丁を備え、水夫と武士合わせて100人以上が乗り組む大型船を日置川河口で建造していたと伝わり、 後の世に大型戦艦の名として広まった「安宅船」という呼び名も、この一族の名にちなむという説があります。

現代における発見 ― 瀬戸内海に沈んだ日置川の石

安宅水軍が南北朝時代にも活動していたことを示す、意外な発見があります。 1977年、瀬戸内海・小豆島沖の水ノ子岩付近の海底から、大量の備前焼と、船底の重し(バラスト)に使われたとみられる川原石が見つかりました。 調査の結果、備前焼は14世紀中頃の製品であること、そして川原石は日置川の川原石である可能性が高いことが判明しました。

この事は、安宅水軍が日置川から紀伊水道-瀬戸内海を結ぶ航路を往来していたか、少なくともこの地で建造された船である、といえそうな物証であります。

安宅氏城館跡(国史跡)

指定
令和2年(2020)3月10日 国史跡
城館数
8城(5城指定)
範囲
日置川流域(安宅・矢田・田野井)

居館跡を中心に、詰め城の八幡山城、支城の大野城・勝山城、見張り用の大向出城などが鶴が羽根を広げたように配置され、攻めにくく退きやすい防衛構造をなしていたと考えられています。

余談 ― もう一つの「熊野水軍」

🐓 闘鶏神社と壇ノ浦の鶏合わせ

「熊野水軍」という言葉でもう一つ有名なのが、田辺市の闘鶏神社にまつわる『平家物語』の逸話です。 源平合戦末期、源氏・平家の両軍から援軍を求められた熊野別当・湛増は、社前で紅白の鶏を闘わせて神意を占い、白(源氏)が勝ったことから源氏方への加勢を決めたと伝わります。 文治元年(1185)、湛増は二千余人・二百余艘という大規模な水軍を率いて壇ノ浦へ出陣し、これが平家滅亡の一因になったとも言われています。

この逸話に登場する「熊野水軍」は、熊野別当家を旗頭に田辺から新宮にかけての広い沿岸から人や船を集めた、いわば連合艦隊のような存在だったと考えられます。 一方、安宅氏が日置川流域に入ったのは鎌倉時代後期のことで、壇ノ浦の戦いより後の時代にあたります。 そのため、安宅水軍と湛増の熊野水軍は、直接の系譜でつながる同一の集団ではなく、時代が異なる別々の存在です。

とはいえ、いずれも「熊野水軍」と呼ばれ、日置川や田辺湾など紀伊半島南岸の浦々を舞台にした海の勢力という点では同根といえます。 なお、闘鶏神社は熊野古道大辺路の起点にも数えられており、富田坂-安居の渡し-仏坂を歩く道の物語にも、巡り巡って繋がっています。

ご来訪にあたっての注意点

⚠ 注意事項

  • 城館跡の多くは住宅地や農地として開発されており、目に見える遺構はわずかです。石垣の一部などが残るのみの場所もあります。
  • 八幡山城跡など山城部分は登城路の整備状況が限られるため、訪れる際は服装や装備にご注意ください。
  • 居館跡周辺は私有地に近接している場所が多く、敷地内への立ち入りはご遠慮ください。

日置川に残る水軍領主の記憶

城跡のほとんどが田畑や住宅地に還ってしまった今も、安宅氏が築いた歴史は、久木小山氏との絆や、地名・伝承の中に今も語り継がれています。 日置にある日出神社は、社伝によれば室町時代に安宅氏によって再興されたと伝わる古社で、毎年10月には熊野水軍を模した神船を担いで浜まで運ぶ「御船祭」が行われています。 勇壮な掛け声とともに海へ向かうその姿に、かつての水軍領主たちの記憶が重なります。

海と山をつなぎ、日置川を治めた水軍領主の物語。
盟友と共に歩んだその足跡は、今も静かにこの地に息づいています。