古道はえびね温泉のすぐそばを通る
海辺の参詣道を歩いた人々
「熊野古道」とは、一本の道ではなく、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を目指して各地から伸びた参詣道の総称である。 古くは奈良・京都・大阪を起点とし、海路も併用しながら紀伊半島を南下した旅人たちが歩いた道で、平安〜鎌倉期には上皇や貴族の「熊野御幸」が 幾度も行われ、旅人の列が絶えぬ様子は「蟻の熊野詣」と称されたほどであった。 各地から伸びる六つの道を合わせると、その総延長は約1,000kmにも及ぶとされる。
主な道筋は、京都・大阪〜(田辺)闘鶏神社の「紀伊路」、奈良・吉野〜熊野本宮大社を目指す修験者の道「大峯奥駈道」、高野山からの「小辺路」、 (田辺)闘鶏神社〜熊野本宮大社の「中辺路」、(田辺)闘鶏神社〜熊野那智大社の「大辺路」、伊勢神宮〜(新宮)熊野速玉大社の「伊勢路」の六つ。 このうち今回ご紹介するのは、えびね温泉のすぐそばを通る「大辺路」である。
参詣道としての主役は、皇族や貴族が公式に通った中辺路であった。これに対し大辺路は、奥駈の修験者や「三十三度行者」と呼ばれる 専門の宗教者が辿る険しい道として知られ、確かな史料が現れるのは近世(江戸時代)に入ってからである。笑話集『醒睡笑』(1623年)など 近世初期の文献に難路として登場することから、少なくとも中世末期にはルートが確立していたと考えられている。
江戸時代に入ると、紀州藩が行政道路として大辺路の整備に着手し、伝馬所や一里塚を沿線に築いた。紀州藩主(紀州徳川家)や、 大峯奥駈行を行う三宝院門跡の一行も、この道を通行したという記録が残る。とはいえ大辺路沿いには旅籠や茶屋が乏しく、 こうした公用の一行を迎える負担は、沿道の住人たちが担うことになった。
起点の道分け石には「左りくまの道」「すくハ大へち」と刻まれ、終点の振分石は大辺路・伊勢路・中辺路の合流点を示す。 急坂・小坂が連なることから「四十八坂」とも称され、歩きにくさが、逆に近代以降の開発を免れさせ、 今も往時の景観を残す区間が少なくない。
中辺路には田辺市から熊野本宮大社まで、「九十九王子(くじゅうくおうじ)」と総称される小さな社が点在し、旅人はそれぞれに参拝しながら歩を進めた。 これらは熊野詣の道中で祈りを捧げる「子院」的な施設で、御幸に同行した上皇や貴族たちの記録にも詳しく登場する、 参詣の道標のような存在であった。
一方、大辺路にも沿道に王子社は存在するが、中辺路に比べると数は少なく、詳細な記録が残っていないものも多い。 王子信仰の厚い中辺路が整備・記録され続けたのに対し、大辺路は信仰の網の目が薄かったぶん、 近世まで「あまり知られていない道」であり続けた一因ともなっている。
大辺路の起源は定かではないが、奈良時代にはすでに都人がこの地を訪れていた記録がある(『続日本紀』)。元正天皇・聖武天皇は 現在の白浜温泉にあたる「牟婁の温湯(むろのゆ)」へたびたび行幸しており、紀伊半島南部は古くから都との縁が深い地であった。 大辺路という道の形が定まるのは後の時代であるが、この地を往来する人々の流れは、万葉の昔からすでに存在していたとみられる。
古代・中世における大辺路の実態は史料に乏しく、確かなことはほとんど分かっていない。元和9年(1623)の笑話集『醒睡笑』や 説経節『をぐり』に難路として大辺路の名が登場するとも伝わり、修験道の記録から室町時代末にはすでに道が開かれていたとみられる。 少なくともこの頃までにルートと名称が定まったと考えられている。
紀州藩は幕府の巡検や藩中枢との往来に備え、海岸沿いの道に伝馬所・一里塚を整備したとされる。紀州藩主の通行も 初代頼宣、7代宗直(享保7年・1722年)、8代重倫(天明8年・1788年、田辺〜潮岬間)、10代治宝(寛政6年・1794年と 同11年・1799年の2度)と複数回記録されており、信仰と統治の両面から大辺路の重要性が高まった時代である。 三宝院門跡の一行もこの道を通行したとも伝わる。
元禄年間(1688〜1704)頃、『熊野独参記』と称される参詣記に大辺路が昔からの参詣道として記されているとも伝わる。 険しい道のりにもかかわらず、風流を求めて各地から旅人が訪れていたようすは、沿道に残る旧家や石碑の類からもうかがえる。
険しい峠道ながら、海と山の景観に恵まれた大辺路は、信仰だけでなく物見遊山を兼ねた旅人にも好まれたとされる。 一方、明治後期からは大阪と熊野を結ぶ汽船の便が整い始め、熊野を訪れる旅行者は徐々に海路を選ぶようになっていった。
1912年(明治45年)、新宮鉄道が三輪崎〜勝浦間に開通。1930年(昭和5年)には田辺・串本間の海沿いに道路が開削され乗合自動車が 運行を始め、1933年(昭和8年)には国鉄紀勢西線が紀伊富田〜紀伊田辺間で開業。これらが現在の紀勢本線・国道42号の原型となり、 大辺路は参詣道としての役目を終え、地元の生活道路へと姿を変えていった。
「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコ世界遺産に登録。大辺路では、白浜町の富田坂・安居の渡し、 すさみ町の仏坂・長井坂の計4区間が、構成資産として最初に登録された。長井坂には、尾根を土手状に 整形した「段築(版築)」という珍しい土木の跡が2か所残る。
その後の調査・整備を経て、串本町の新田平見道・富山平見道・飛渡谷道・清水峠の4区間が追加登録された。 串本町内には、磯辺の岩山をくり抜いた珍しい「通り穴」と呼ばれる旧道も残り、明治期にはサーカスの象が くぐれず迂回したという逸話も伝わる。これにより大辺路の世界遺産構成資産は、白浜町2区間・すさみ町2区間・ 串本町4区間の計8区間となっている。
街道は近代の国道や鉄道建設によって失われる場合があり、古道らしい姿が残る区間は限られる。 世界遺産に登録された8区間は、全体からすれば開発を免れたゆえに残ったともいえる。
一方で、国道42号や紀勢本線は大辺路の沿線集落を結ぶ公共交通・生活インフラでもある。 旧道を失わせた開発が、同時に地域の暮らしを支えてきたという側面も忘れがたい。 自然の景観を優先して守ることと、人々の生活を便利にすることは、必ずしも一方が正しいとは言い切れない。 大辺路の現在の姿は、そうした長い時間のなかでの選択の積み重ねである。
そのなかで、2009年(平成21年)にはすさみ町の長井坂周辺でJR西日本の観光事業工事により 参道の猪垣(いのししよけの石垣)が一部破壊される出来事も起こり、完全な復旧は難しいとされた。 残された古道をどう守るかは、今も問われ続けている。そして現在も、国道や鉄道に吸収されたとされる区間のなかに、 いまだ知られていない古道の遺構が眠っている可能性はゼロではない。地元では断片的な旧道を再発見する試みも 続けられており、大辺路はまだ、完全に解き明かされた道ではない。
大辺路は「海沿いの参詣道」として語られることが多いが、えびね温泉のすぐ近くを通る区間は、海岸線とは縁遠い、山と川の道である。 このあたりの枯木灘海岸は断崖と荒磯が続くため、旅人は富田坂・仏坂という峠を越え、間の日置川は渡し舟で渡るしかなかった。
海が険しすぎたからこそ、山と川を越える道が選ばれた区間。
それがえびね温泉のそばを通る大辺路の姿である。